2009年05月21日

国家による偶像礼拝の強制

日の丸・君が代の強制は偶像礼拝の強制なので反対であるが、同じ反対派の主張、その反対派に懐疑的もしくは反対派に反対の人の主張を読んでみると、クリスチャンの日の丸・君が代の反対とは理由が違うので両者に対して一線を画したい。聖書の教えに反するのでクリスチャンは日の丸・君が代の強制やそれに類する主張に反対しているのであって、他の理由で日の丸・君が代に反対しているのではないからだ。敢えて言えばどちらもどっちなのである。クリスチャンは右でも左でもなく、神様に対してどういう姿勢であるかが問題なのであるからだ。

敢えて言えば、聖書の神抜きの、日の丸・君が代の強制に対して賛成・反対などという論議自体がクリスチャンの私にとって、ナンセンスこの上ないのであって、聖書の神を信じる私にとって、そんな議論をする人々はいざとなったら共に手を取ってクリスチャンに反対(クリスチャンを迫害)するに決まっている、と判断できる。彼らの議論は聖書の神抜きで行われている、すなわちクリスチャンの観点抜きでの議論であって、彼らはクリスチャンの日の丸・君が代の強制に対する本当の反対の意味を知らないし、知ったとしても彼らにはとても賛成できない代物だから、日本では、共に反対は主張できない、と神を信じない日の丸・君が代強制反対派の人には言いたいのである。

そして、クリスチャンに対しては、クリスチャンですら日本では日の丸・君が代を強制させた歴史を持つことを忘れてはならない。クリスチャンはあくまで聖書の教えに従って日の丸・君が代の強制に反対すべきなのだ。そしてただ淡々と福音を人々に述べ伝えるべきなのだ。社会的な運動を強調する教会やクリスチャン、彼らを多く抱える教団などもあるが、そんなことよりも大切なことが聖書の神を信じる者にはあるのではありませんか、とも私は言いたいのである。

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2009年05月11日

忌野清志郎のいない5月

5月2日に、ロックミュージシャン、忌野清志郎がガンで死んだ。私の世代はまさに彼の全盛期にぶつかっているので、彼の凄さは何度も見た。聞いた。まさに彼は生き方そのものがロックだった。ロックとは反体制の生き様を指すのだ。去年の8月に赤塚不二夫を失い、11月に筑紫哲也を失い、また今月、忌野清志郎を失った。そして日本の社会は崩壊へと向かっている。彼らのような存在が必要な、その時に彼らは死んでしまった。





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2009年05月05日

クリスチャンと政治の関わりについての考察

私は、私の信条として、「教会と国家の関係」の立場を以下のようにとっています。

教会と国家の関係について

教会と国家の関係について、聖書は以下のように教えていると信じます

1、政府(国)を定めたのは神であり、その目的は、堕落した人間の住む社会に公正な秩序を定めるためである。   ……ローマ13:1〜7

2、政治家が、神にあって正しい政治をするように祈る。  ……1テモテ2:1〜2

3、主のみこころに反する命令には不服従の態度を取る責任がある。  ……ローマ13:4

この問題を考察するに当たって、まずすべきことは、クリスチャンが政治活動、即ち、議員や自治体の長になることを聖書は否定しているのか、否定していないのかを、聖書から読み取ることである。なぜそうしなければならないかというと、もし聖書で神様がクリスチャンが政治活動をすることを否定するということを明らかに教えているならば、政治活動自体がクリスチャンにとって証とならない悪であるということを意味するということになる。そして、その原理は、クリスチャンが全ての社会活動から手を引き、ひたすら天に行くことだけを目指して生きるカトリックの修道院の修道士のような生活をこの世ですべきだと教えることになるからである。クリスチャンは、ただ終末の日、または、天に召される日をただ待つ生活をすべきだということになるのである。

しかし、この世界は全てのものが神の主権の下にあり、政治の問題に関しても、神の主権の下にある。当然、他の働きをする時と同様、神の召しがあるならば政治の働きをクリスチャンがすることは当然であり、逆に、政治の働きへの召しが確かに神のみこころならば、それに反対することこそ、クリスチャンは恐るべきである。

これを別の言い方で言うと、政治について領域主権論の例外としてクリスチャンが関わってはならないと言う根拠はない、のである。また、他の仕事に就くのと同様に、1人のクリスチャンを神がもし政治の働きに召しているのであれば、そのクリスチャンは他の仕事に就くのと同様の態度で政治の働きに関わるべきである。何より、政治の世界に関わる人を、世界の秩序の維持の代理者としての権威が神から与えられている人ととらえ、その人たちのために祈るべきなのである。しかし、もし、政治の世界に関わる人が、神の造られた世界と、その秩序、聖書の教えに対して、明確に反対するのであれば、クリスチャンは、それらの人々の行動に対し公に反対の意志表示(信仰告白)をして警告する義務を、神に対してクリスチャンの証として負う。具体的には、天皇の存在を政治利用して戦前の日本のように国家の秩序を聖書の教えに対して間違った方向に導くようなケース(今の日本の右傾化は、明らかに、その危険性を持っている)が挙げられる。

他の問題で人が神の主権を侵害した時も同じ原則で対応すべきである。児童ポルノの規制の問題のような、人権が関係する政治問題は、まさに、今の日本の社会(日本)の秩序を破壊し、戦前の日本のような国家の秩序を今の日本に持ち込もうという動きに他ならず、そこに政治家や官僚などの利権が関わるに及んでは十戒に明確に反するのでクリスチャンはクリスチャンは、それらの人々の行動に対し公に反対の意志表示(信仰告白)をして警告する義務を、神に対してクリスチャンの証として負うのである。

posted by one_christian1961 at 22:08| 東京 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 児童ポルノ禁止法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

クリスチャンもピンからキリまでいる

クリスチャンもピンからキリまでいます。ネット上でもちろん、顔も見ていない、どういう人間かも、その背景が分からない。文章だって、その人間の背景が分からなければ意図が分からない、そういう場なのですからクリスチャンと自称してもピンからキリまでいるのは当たり前でしょう。

それに、私は明らかに、私の聖書の教えについての話をしていた時にクリスチャンから議論を持ち込まれた経験がかなりあります。

クリスチャンでない人はクリスチャンならみんな仲良しで礼節を重んじる者だと思っているようです。

クリスチャンだって罪人であり、牧師同士がしている礼節をとても重んじているとは思えない物凄い議論を私は見たことがあります。牧師同士の対話という次元でなく、罵倒のしまくり、正統な牧師を異端呼ばわり、そのようなやり取りを見たことがおありでしょうか。牧師同士でも罵倒合戦平気でやるくらいですから、クリスチャン同士だって当然あり得ます。明らかに私を議論でコテンパンにやり込めようとしたクリスチャンも明確にいます。

外見だけで判断すると間違った判断をしがちです。

ネット上で十分なコミュニケーションが取れると考えている人がかなりいて、その中にはクリスチャンもかなりいますが、私はそうは思いません。

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